H25.12.27 (12.24 事務所にて)
今年1年を振り返ってみたい。
今年の大きな出来事の一つは、税理士法改正が実現することだ。改正点はたくさんあるが、公認会計士をどうするか、という問題が大きい。会計士は今までは税理士資格を自動付与されていた。それに歯止めがかかった。つまり国税審議会の指定する税法研修に合格しないと税理士になれないという改正項目が入ったのだ。税理士法ができてから60年間の両者の争いだった。戦後間もないころは税理士も少ないし、税務申告がしっかりしていないと国が成り立たないので、そのために会計士もいいだろうということだったが、今ではその意義は薄いものとなった。
税理士と会計士ではその使命が違う。会計士は適正な監査が使命だが、税理士は適正な納税義務の実現が使命だ。それぞれ違う使命の専門家が相乗りするのは理論的に成り立たない。
もう一つは事務所のことだ。
一番印象深いことは職員の出入りが多かったことである。3名退職したことは非常に残念なことだ。
この世に今の両親から産まれてきたことは選択の余地がない。これは一つの運命、天が与えたもの、縁でもある。生まれから家庭で育って勉強して、その環境というのは自分の意志では変えることはできない。学校を卒業して当法人に入所した、これも縁であり、一つの天から与えられた運命だ。それは粛々として受け入れなければならない。その与えられた環境の中でいかに自分が努力していくかが大切だと私は思う。隣の芝生が青く見える、ちょっと辛いことや嫌なことがあるとみんなそう思いがちだが、そうではない。今の自分がこの仕事に就いたということは、天から与えられた試練なのだ。そこから逃げ出すというのは、大げさに言うと天に背くこと。生まれた時から自分の人生は決められている。その中でどう生きるかが一番問題だ。そういった意味で、辞めていくということはいろいろな理由があると思うが、私は問いたい。その中で自分はどれだけ努力したのか、逃げ出すだけなのか。どこの世の中に行ってもみんな同じである。私も70年生きてきてそれがよく分かる。与えられた環境でベストを尽くすことが一番。それが自分の人生を開く道だ。自分が辞めたいと思ったら、自分に問いかけてみてほしい。自分はその環境の中でどれだけ努力したのか。
当事務所は多分今年よりも来年、また一段と発展していくと私は信じている。基本的な方向性は間違っていないから、絶対に発展していく。あとは努力あるのみ。それは職員一人一人が支えていくことなので、我々も皆さんに期待したい。
H.11. (11. 事務所にて)
会議の進め方について。
議長やリーダーになった場合の注意点について説明しよう。会議を進めるポイントは、
1.事前に議題となる事項について勉強しておくこと。
自分がリードしなければならないのだから、内容が分からなければどうしようもない。議題について必ず事前に勉強をしておく必要がある。ただ勉強をするのではなく、どういう意見が出そうか予測してその対応方法を勉強しておく。
会議はいうのは、ある一定の結論を得るために行なうものだ。わいわい話して終わりというのは何の意味もない。どういう意見が出るのかを予測し、議長としてどのように対応し結論を導き出すのかを考えておかなければならない。それが準備なのだ。準備をしていない議長の場合は圧倒的に事が運ばず、ダラダラと長くなる。それでしかも結論が出ない、ということが多い。まさにウィーン会議の「会議は踊る。されど進まず」である。
2.必ず自分の意見を持っておくこと。
この問題に対して私はこういう結論を得たいと事前に決めておくこと。議場を誘導してはいけないが、どんな議題でも反対意見は必ず出る。賛成がいて反対がいる。それをどうやってまとめるのか。最終的に決めるのは議長だと思う。そのように議事を持っていかないといけない。皆さんに意見を聞いて議場に図る。そこでいろいろな意見が出る。そこからが議長の力の入れどころだ。全体がどういう雰囲気になっているのかを判断し、そこからまとめ上げていくのは議長の手腕であり、責任でもある。
当事務所も会議がいくつかある。TSMが一番大きいMTだが、リーダーは事前に勉強して、自分の意見を持って参加してほしい。会議時間はきちんと守らないといけないので、その準備をしておけば、延長となることはないだろう。
私もこれまで何百という会議をやってきたが、その経験則からこれらの結論を得たのである。強い意志と強い方向性をリーダーが持っていないと結論は出ない。
小さな会議、大きな会議、みんな同じである。会議は引っ張るリーダー、議長の力量次第で決まる。
H25.11.19 (11.18 事務所にて)
物事の表と裏についてお話ししたい。
消費税でも賛成する人と反対する人がいる。憲法でも護憲派もいるし改憲派もいる。原発も小泉さんのように即廃止と言う人もいるし、継続に賛成と言う人もいる。
私が驚いたのは、放射能である。放射能は、皆さんは人体にとって有害だと思っている。ところがこの恐ろしい放射能さえも体にいいのだ、という説がある。
「ホルミシス効果」(興味を持った方はネットで調べてみてはしい)という。これはアメリカのラッキー博士が論文で書いている。
確かに微量の放射能はいいかもしれない。ラドン温泉などがいい例だろう。ラドンは放射能の一種である。人体の細胞を活性化させる作用があるらしい。しかし、この「ホルミシス効果」は被爆国である日本ではあまり言われていないが、世界ではかなり議論されているようである。
広島で被爆した方で今生き残っている人は、日本人の平均寿命より長いということが言われている。確かに長生きされている方はたくさんいると思う。しかし、それが被爆したからかどうかは実証されていない。もともと頑健な人だけ生き残っているから、当然長生きだろうという議論もあるようだ。われわれ素人には分からないことので、科学者がきちんと調べた上で情報を流していただきたい。
物事は絶対的に良いとか悪いというものはない。必ず裏と表がある。私は、その効果が実際あるのかどうかは信じないが、否定もしない。絶対100%これは表だ、100%裏だ、とは言えない、ということを改めて感じた。あの放射能でさえそういうことが言われてきているというのは恐ろしい気がするが、短絡的に物事を判断してはいけないという一つの教訓として捉えたい。
H25.10.29 (10.28 事務所にて)
リニアモーターカーが間もなく実現して、東京-名古屋間が40分でつながるということが発表された。その発表を聞いて、時間の短縮は果たして人を幸せにするのだろうか、ということを考えた。今までは1.5~2時間かかっていた。昔は十何時間とかかっていた。それがどんどん時間が短くなっていく。技術革新や時代の進歩は、言い方を換えると時間をいかに短くするかということである。
技術革新の目的は人を幸せにすること。幸福な生活のために、新たな技術を開発し、それを製品化して世に送り出す。そして要した時間の短縮を目指す。しかし、そのことが人間を幸せにするかというと、むしろ逆の方向にいっているのではないだろうか。ここ20年間で自殺者は3万人前後。技術革新は目覚ましいのに、その数は一向に減らない。20年前は2万人前後だったので、1万人位増えている。
例えば、名古屋まで40分で行くというと、今までは1日泊まって二日がかりだった出張がその日のうちにできてしまう。ということは、今まで2日でやっていたことを1日でやるわけだから、人間に課せられる仕事量が倍増する。人間の本来持っている生理的なものは、朝日が昇って起き、夜日が沈んで寝る。24時間のこのリズムは絶対普遍的な自然の法則である。それは大宇宙の法則だから、古代からずっと同じだ。その中に人間が生きてきたわけだから、人間のリズムは昔と全く変わることがない。それを人為的に短くすることは、そこにストレスが生まれる。時間を縮めることは決して人を幸せにしないな、と感ずるのである。
しかし、そのような現実を否定するわけにはいかない。この世の中に生まれて生活しているのだから、その時代の流れに逆らうわけにはいかない。その中でいかに幸せに暮らすかということを考えると、私はそういう時代の流れから少し別な時間を自分で設けないといけないと思う。つまり、ゆっくりした時間、時間に囚われない時間というものを自分自身が作らなければいけない。いかに自分でそういう時間を作るか。全く時間から隔絶された時間を1日の中で儲けるのか、あるいは1週間の中で儲けるのか。そういう時間を作らないといけないと私は思う。四六時中、時間に追われるような生き方はしてほしくない。きちっとけじめをつけて、時間に追われない自分自身の時間というものをぜひ持っていただきたい。
H25.10.10 (10.7 事務所にて)
論語「子、四を絶つ。意なく、必なく、固なく、我なし。」
4つの我を絶つ。孔子は論語なので、儒教の流れだが、仏教の禅と全く同じ考え方をとっている。お釈迦様は、「没我」をその命題としたが、孔子との共通点は多い。
相続で、よく身内の争いがある。財産が欲しいと兄弟が喧嘩をする。そういうのを見ていると、本当に「我なし」ではなく「我あり」そのものである。世の中、自分の欲に固執する「我あり」の人がいかに多いかということが分かる。
「欲しい」というのは自分が中心だからだ。自分の欲を真ん中に置いているから、財産が欲しいことしか考えない。そういう人は幸せにならない。いつも不満タラタラなので、幸せなはずがない。なぜこのように自分にこだわるのか。
般若心経で「五蘊皆空」、「色即是空」でも言っているように、お釈迦様はすべてのものは「空」だと言っている。これは禅の神髄だ。自分なんてものは価値のあるものではない。なぜそんな価値のない自分にこだわるのか。
「五蘊」というのは自分の心と体のこと。受想行識という自分の感受性や想い、意思決定、認識などの心の働きだ。そして「色」とは自分の体や物など見えるものだ。心も体も皆「空」で絶対的な価値などありはしないと断じたのである。
正にその通りだ。
お金に執着するとみんな不幸になる。それはなぜか?欲望に限度がないからだ。
例えば、同じ1万円でも明日の米にも事欠く家庭にとっての1万円は大金だ。しかし、アラブの石油王にとっては、一万円は何ほどの価値もない。では1万円の価値って何なのだろう。絶対的な価値はないではないか。
100万円貯めれば1000万円貯めたくなる。1000万円もらえれば1億欲しくなる。人間の欲は無限だ。そういうものに執着すると、人間はいつまでも不幸だ。だから、物事に執着する、特に自分に執着することは生きていく上で最悪の選択であることを理解しよう。
心に不満を持つことは誰にでもあるだろう。自分が何かに不満を持った時に、「自分は今何に執着しているのだろう」と思い返すことが非常に大事である。これを自己客観化という。
孔子は、4つの自分を絶つと言っているのは、正にそういうことだ。自分が怒り、不満を覚えたら、自分のこだわりを自覚し、相手を思いやる癖をつける。そうしたらみんなハッピーになれるだろう。
H25.10.3 (9.30 事務所にて)
私は運命論者というわけではないので、頭からこういうことを信じているわけではないが、この世の中は波だと思っている。波のように寄せては返す。満ちれば欠け、欠ければ満ちる。そういうことだと思っている。上手く波に乗ることの方が楽に生きられる。ダメな時にもがいたら余計に苦しむ。例えば、溺れている時にもがいても無理だ。それよりも、力を抜いて下まで落ちてみるとちゃんと底がある。その底を蹴ればまた上がってくる、ということだ。
私は、割と若い頃から高島暦を読んでいる。今は、自分の人生が来年こうなるというよりも、世の中の全体がどういう方向に進んでいるのかを中心にこれで学んでいる。
これでいくと、来年は今年よりも少し穏やかになるのかな、という感じである。景気も少しは回復してくる、というイメージだ。ただ残念なことに、自然災害はまだありそうだ。ちなみに昨年の高島易断では、九星気学でいうと、水害が多い年と出ている。皆さんもご存知のように、今年は水害が多かった。
私はこういうものを読んだ時に、9年に1回なので、歴史年表を紐解いている。歴史年表で9年前を遡っていくと、この年はこういうことがあったと見えていくるので、傾向が掴める。そういうことを知っていて無駄にはならない。人生の糧に使うと良い。
個人的な見解だが、2015年に向かって一つの転換点を迎えていると感じる。30年近く前からこのことを話しているが、世の中は30年が一つの目安のような気がしている。ちょうど幕末の変化を見ていくと、やはり30年かかっている。今回、1986年のプラザ合意からきているので、2015年で一つの転換点が訪れるという感じがする。こういう世の中の波をきちんと把握しておけば、少し楽に生きられるのではないかと思っている。ぜひ参考にしていただきたい。
H25.10.3 (9.24 事務所にて)
二宮尊徳の「二宮翁夜話」の中にある言葉を紹介したい。
『非理法権天』
非 は理に勝つ事あたはず
非はやってはいけないこと、理は倫理、人の道。やってはいけないことは当然倫理に勝つ事はできない。
理 は法に勝つ事あたはず
人の道は法律には敵わない。我々は税に携わっているから、これは良く分かる。人の道に違うような法律や解釈、税務通達がある。しかし法治国家なので、法に勝つ事はできない。
法 は権に勝つ事あたはず
権力は国家。法律を作るのは国会なので、法は国家に勝つ事はできない。
権 は天に勝つ事あたはず
この場合の天は、宇宙の摂理だと思う。国家といえども大自然の脅威には勝つ事はできない。
さらに
天 は明らかにして私なし
これがまた素晴らしい。天は一切の私心を持たない。欲もなければ恨みも一切ない。
正にこの通りだろうと思う。
この原文を読むと、
『勤むべき事は天の行ひなり、世の強欲者、此理を知らず、何処迄も際限なく、身代を大にせんとし、智を振い腕を振ふといへども、種々の手違ひ起りて進む事能はず、又権謀威力を頼んで専ら利を計るも、同じく失敗のみありて、志を遂る事能はざる、皆天あるが故なり』
と言っている。権力に頼って私欲を肥やしても、必ず天が見ている。上手くいかないよ、と諭している。
我々も日常の生活の中で、心したい言葉である。
H25.9.4 (9.2 事務所にて)
事務所の応接間に『仁智明達』という額がかけてある。
「仁」とは「仁、義、礼、智、信」の仁である。報徳の徳に通ずると思う。徳に報いる、人に感謝する、人に優しく接する、他人を思いやるということである。「智」は、知恵だ。知識、技、それを明らかにして達せよ(明達)。知徳をきちんと学べ、という意味である。
報徳事務所にピッタリの言葉だと思いませんか。報徳事務所は、車の両輪の如く、「仁」と「智」を高める場所なのだ。
福澤諭吉の『文明論の概略』の中に「文明とは何か」という節がある。明治初期から巷間、文明開化と盛んに言われた。福澤諭吉は、「文明とは、人の安楽と品位の発展だ」と言っている。では、人の生活の安楽と品位の発展は何によってもたらされるか。それは知徳の発展がその礎だと言っている。正に「仁智」である。知徳の向上こそが社会発展の基礎だ、ということを「文明論の概略」第三章で言っている。我々はその両輪「智」と「徳」の両方がないと幸せにならない。人を幸せにできない。
明治初期の頃、欧米は文明先進国であった。知徳の発展した国々であると思っていた。しかし、その国々を見ると、人をだましたり、脅したり、英国の属国であるアイルランドは芋ばっかり食べている。それが文明国か、という反論が出た。そこで福澤諭吉は何と言ったかというと、緒方洪庵の言葉を借りて『帯患健康』だと言った(医学は緒方洪庵から学んでいる)。一つくらい病気や悪いところがあるのが自然であって、それで健康であればそれでいい。一つも患っているところがない人(十全健康)は誰もいない。どこか悪い。でもみんな健康でいられる。正に「帯患健康」の考え方でいいのではないか。完全無欠の文明なんてありえない、と言ってその反論に対抗したのである。
『仁智明達』
書道家の太田さんがこの事務所を開く時に書いてくれた。事務所応接室に飾ってある。ぜひ、味わっていただきたい。
H25.8.27 (8.26 事務所にて)
論語「人にして遠き慮り無ければ、必ず近き憂いあり」
計画を立てて上手くいく人と上手くいかない人がいる。計画を立てて上手くいく人を「意思が強い人」と言う。しかし本当は、意志が強い云々ではなく、我々は心の中にバリアを張っているのではないか。それは今までの教育や習慣等によって作られる。それが正しいものとして一つのフィルターになっている。そのフィルターを通して物事を判断するようになっている。
上手くいかない人には共通点がある。決して能力がないということではない。できないということを先に考えてしまうからだ。そのできないというフィルターを通して物事を判断するから、全てのことができないことになってしまうのではないか。
ところが人間は生まれ変わることができる。人として生まれることが第一の生誕であれば、心の壁をぶち破ることが第二の生誕だ。心の壁をぶち破った人だけが、人として生き生きとした人生を送れるようになっている。これはやってみないと分からない。人から聞いても、自分にはできないと考えている自分がそこにいる。ところが、やってしまうと、自分の力はこんなにも無限大なんだ、と思うことがある。何でもいいから小さい殻をぶち破るということが大事だ。
今期一年間、個人別目標管理をやってもらった。中には形骸化して、何のためにやっているんだろう、と思っている人や全く成果が出ていない人もいた。それはまさに自分の殻をぶち破る経験だ。あえて今期は、「目標は小さくてもいい」と言った。できるという実感を味わってもらいたかったからだ。来期も目標管理がある。そんな意味を込めながら、自分を成長させる道具だと思って、取り組んでもらいたい。
人間は限りなく生成発展するようにできている。それを自分の中でふたを閉めるのは自分の今まで培ったフィルターである。その習慣や教育で培われた悪しきフィルターを取り除くことが成長の出発点だ。
H25.8.20 (8.19 事務所にて)
「おおきな木」という絵本をご紹介したい。
結構有名な本で、小さい頃、親から話してもらった記憶があるという人は結構いる。だが、私はその経験はなかった。高校の同級生がネットで意見を言い合っている中に、この話題が出てきて、議論が百出して大変面白かった。
「おおきな木」は、シェル・シルヴァスタインというアメリカの作家&音楽家で幅広い活躍をされている方が50年程前に書いた絵本である。
あらすじを言うと、
『あるところに大きなリンゴの木がありました。そこにいつも小さな男の子が遊びに来ました。ブランコをしたり、幹で寝たり、リンゴをもいで食べたり、いつもリンゴの木と遊んで一日を過ごしていました。リンゴの木もその子が大好きでした。
時が過ぎて、小さな男の子が青年になってやってきました。青年は「遊ぶお金が欲しいのでお金をちょうだい」とリンゴの木に頼みました。リンゴの木は「私はお金を持っていない。でも今実っているリンゴの実を全部採っていっていいから、それを街に行って売ってお金にして下さい。」と言いました。その青年はリンゴの実を全部採って町に行ってお金に換えました。それからしばらく青年は来なくなりました。リンゴの木はとても寂しく思っていました。
何年か経ったある日、大人になった青年がやってきました。「今度、結婚するんだ。 家を建てたいんだ。」と言いました。「家を建てるお金も何もないよ。でも枝がいっぱいあるからその枝を切り払って家を作って下さい。」とリンゴの木は言いました。その青年は全部枝を切り払って持ち帰り家を建てました。リンゴの木はとても喜んで、嬉しさいっぱいで幸せでした。
やがてまたしばらく経って、今度は老人がやってきました。「人生に疲れてどこか遠くに行きたいんだ。船で外国に行きたいんだ。」と言いました。「船なんてないよ。この太い幹を切って船を作りなさい。」とリンゴの木は言いました。その老人は幹を全部切り倒して船にしました。それでもリンゴの木はとても幸せでした。
さらに何年か経って、ヨボヨボした老人がやってきました。リンゴの木は「もう何もあげる物はないよ。」と言いました。「疲れているんだ」と老人は言いました。「じゃあ、この切り株に座って休んでいきなさい」とリンゴの木は言いました。老人はその古びた切り株に座って休んでいきました。リンゴの木はとても幸せな気持ちでいっぱいでした。』
このお話を皆さんはどのように理解するのか。真の愛というのは、与えるだけで見返りを求めないもの、と捉えて母の無償の愛を思い出すのか、あるいは一方的に困った時に愛とか助けを求めて何もお返しをしない自分勝手な奴だ、この少年のような人生は送りたくない、という風にとるのか。また「木は幸せだった」とあるが本当だろうか、「与える」行為こそが人生最大の喜びである、等々感想はいろいろだろう。
この絵本の話しは単純だが、意味はものすごく深い。5分程度で読める本なので、ぜひ読んで、無償の愛とは何だろうということを少し考えてみるのもいいだろう。
H25.8.9 (8.5 事務所にて)
8月6日から税理士試験だ。人生はおもしろい。一年間努力しても、たった一日で決まってしまう。その一瞬に向けて集中してやっていった人が成功するようになっている。
「中小企業会計要領を活用したベストプラクティス集」を中小企業庁で作成する。今回、事務所HPのトップページに掲載した。そこから自薦・他薦で入れるようになっている。お客様のところで中小企業会計(どちらかというと管理会計)を活用して業績を伸ばした等の模範となるようなものがあったら、どんどんお客様の了解を得て出していただきたい。8月末が締め切りとなっている。
今年も事務所職員にはTKC経営支援実務研修を受講してもらう。サブタイトルは『所長の覚悟』。
「覚悟」とは、仏教用語で「迷いを去り道理を悟ること」。どういう仕事をすればいいのだろう、どういう生き方をすればいいのだろうと、我々は日々迷っている。その中で大切なことは、正しい道だ。その正しい道をそろそろ悟りませんか、というメッセージだ。
私の講義(8月1日(木))の冒頭に、「今日の研修は知識でも何でもない。それよりもここで覚悟を決めてもらう。覚悟とはこういうことだ。」ということを話した。具体的に動き始めることが大事なのだ。
その後の懇親会の時に、「金・土・日の週末に覚悟を決めます」と言った参加者がいた。この人は何も分かってないな、と思った。こういう人は一生悟れないと思う。くれぐれも研修に行ったら、間違いなく覚悟を決めていただきたい。
H25.7.31 (7.29 事務所にて)
今日は、禅とゴルフについてお話ししたい。
禅の神髄、奥義は『無念無想』。何事にも執着しない、雑念を払うということだが、これがゴルフにとても役に立つ。
去年、賞金王になった藤田寛之プロが5月に本を出したので、早速読んでみた。彼の場合は、まさに禅のゴルフである。優勝したい、バーディーとりたいなどの欲を一切取り払い、目の前の一球だけに集中するという。優勝はその結果に過ぎない。
「無念無想」とは何にも考えないということではない。一点に集中をするということだと思う。座禅は座禅をすることに集中する。しかし、凡人は一点に集中することがなかなかできない。いろいろな雑念、欲望がグルグル頭の中を巡っている。
目の前の一球に集中するということは、どのようにしたらできるのだろうか。私は三つの条件が必要だと思う。それはよく言われる「心」、「技」、「体」の充実が条件だと思う。雑念を取り払う心の訓練、技の練磨、それを支える頑強な体。これらが揃ってはじめて目の前の一球に集中できる。
今、石川遼君と松山英樹君が比較されている。石川君は今絶不調である。先日のカナディアンオープンでも最終日に進めなかった。しかし松山君は15位だ。技や体は二人とも一級品であろう。では何が違うのかというと、心だろう。石川君は少し禅の勉強をして精神の鍛練をした方がいいのではないか。松山君が禅の勉強をしたかどうかは分からないが、彼は本来的に周囲を気にしない心、そういうものを持っているように思える。だから眼前の一球に集中することができるのだろう。
我々もそうだが、一日一日集中するとか、今やっている仕事に集中するということはできそうでできない。そこで、とりかかる前にまず雑念を取り払おうという心構えを自分で持つことが非常に重要だ。その前提として、体を鍛え、スキルを磨いておくことが不可欠ではある。
私は何十年とゴルフをしているが、漫然とやっていたのではないか。反省である。集中するとはどういうことかを改めて藤田プロに教わったような気がする。皆さんも一点集中で、やってみたらいかが。素晴らしい結果がでるでしょう。
H25.7.23 (7.22 事務所にて)
「二宮金次郎の幸福論」という本が4月18日に出た。著者の中桐万里子さんは二宮尊徳の七代目の子孫にあたる方だ。非常に読みやすい本である。
二宮尊徳は道歌(五・七・五・七・七の短歌)を多く残している。通常だと分かりづらい真理を歌に託して分かりやすくしている。当事務所にも全書があるので、ぜひ読んでもらいたい。
その中に、こんな歌がある。
『見渡せば敵も味方もなかりけり、おのれおのれが心にぞある』
あいつは敵だ、あいつは気に入らない、などと言ったりするが、敵・味方とは何なのか。まさに自分の心が、あいつは気に入らないから敵だ、と決めている。では、敵と味方が生まれる場所はどこか。実は自分の心なのだ。「傷つきたくない、責められたくない、と自分を握りしめるほど、相手に怯え不安になり、勝手に相手を敵視して、ついつい攻撃という形をとってしまう」ということだそうだ。
世の中で上手くいかない人はどういう人か。それは、自分は常に正しいと思っている人だ。思考が凝り固まっていて、相手が間違っていると思っている。こういう人は間違いなく人生失敗するだろう。生まれてからのわずかな経験だけで物事を判断しては誤ってしまうのは当然だろう。
松下幸之助氏もよく言っていたが、人間、上手くいくためには「素直」が大切だという。真っ白な状態で物事を考えてみるということだ。自分は正しいと思っていても、一歩退いて物事を考えてみることが非常に大事だ。
当事務所ではちょうど今、来期の個人別目標等を練り直ししている時期だ。1年前に立てた目標が上手くいった人もいれば、上手くいかなかった人もいる。それは何なのかを素直に反省していただくといいのではないか。今期は個人別目標管理の導入初年度ということもあって、あえて簡単なものにしてもらった。習慣を変えて、行動を変えていけば、自分にも達成できるという実感を味わってもらいたかったからだ。来期は2年目になるので、事務所の目標の中で自分がどこを分担するのか(巡回監査や書面添付割合等)を個人の目標にきちんと入れておく必要がある。今回、事務所全体で見ると、巡回監査率等の数字が落ちている。その原因は何なのか。皆の意識がそこに向いていなかったからではないか。これも反省点の一つだ。事務所職員には、来期の方針もしっかり読み直していただき、この反省を活かし、次につなげてもらいたい。
H25.7.17 (7.16 事務所にて)
税の三原則とは何か。
「公平」、「中立」、「簡素」である。今日はその中で一番重要な「公平」についてお話ししたい。
今、参院選挙をやっているが、税については財源論の議論ばかりである。社会保障の財源、年金の財源、医療の財源、国家財政立て直しには財源として増税が必要(消費税アップ)、それ一色だ。そこに一番大事な負担の「公平」の議論が置き去りにされている。増税は「公平」であれば多少負担が重くても、国民の皆さん方は大方納得する。不公平だと、低い負担率でも不満は大きい。消費税増税の真の意味を良く説明すれば、十分理解を得ることはできるであろうと思うのだが、政治家の皆さん方はそれを避けてしまう。政治家自身が真の意味を理解していないこともその一因ではあるが・・・。
それでは「公平」な税制とは何か。
税の公平性には二つある。「垂直的公平」と「水平的公平」だ。
「垂直的公平」とは、応能負担といって、担税力に応じて税を負担していく。つまり、所得の多い人にはそれなりに税金をより多く負担していただき、少ない人は少しでいい。これが垂直的公平だ。支払い能力に応じて税金を負担していただく。これも重要な公平性の考え方である。しかしそれだけで公平性は完遂できるのだろうか?
そこで、もう一つの視点がある。「水平的公平」だ。これは、日本のように先進国で、かつ所得の中間層が大半を占めるような非常に均質化した社会では、所得だけの負担でいいのだろうか。インフラが充実し、教育、医療などの社会的便益を大半の国民が均等に受益している社会では、その負担をどうすべきであるかという議論である。
車を一人一台持っていて、だれでも高速道路を走り橋やトンネルを渡る、みんな国からの便益だ。子供は学校に行く。小・中学校は一人年70万円、高校は一人年80万円位、全部税金で賄われている。それは個人の所得には関係なく平均的に便益を受けている。「私は所得が少ないから税金は負担しない、でも子供は税金で高校まで行かせてもらう」。それは本当の公平と言えるだろうか。それなりに負担していただくのが「水平的公平」の考え方である。「垂直的公平」と「水平的公平」のバランスのとれた社会が一番いい。それが理想的な負担の公平だと思う。
「水平的公平」の代表的な税が「消費税」だろう。誰でもモノを買う。消費するから必ず税を負担する。モノを買わないで生活はできない。たとえ生活保護を受けている方でも、生活するためには食料品を買う。それには消費税(現5%)が必ず付いてくる。自然のうちに負担している。それが水平的公平だ。
消費税増税反対、あるいは消費税自体反対と、野党は選挙で盛んに言っているが、何が負担の「公平」なのかという議論をきちんとする必要がある。国からの便益はどんどん受けたい、でも負担は嫌だ、という風潮が社会に蔓延している。由々しきことである。
H25.7.9 (7.8 事務所にて)
当事務所では、期末に職員と面談をさせてもらっている。今回は、自分で立てた目標や事務所の目標がきちんとできているのか、できていなければ、それは何が原因なのかを謙虚に考えてもらっている。それは、「自律的組織へ脱皮したい」と思っているからだ。
『自律的組織は従業員が自由に創造性を発揮し、イノベーションを起こせば良い組織ではない。自由と規律、創造性とコントロールといった相対立する必要性を併存させねばならない。』
これは、方針に従わず自分勝手なことをやっている人の集まりではない。事務所の経営方針とか様々な方針書に沿いながら、創造性や自由を発揮していくことが大事だ、ということを言っている。ここを間違えて考えてもらっては困る。自分勝手なことをやって成果を出せばそれでいい、ということはない。ここが大事なことだ。
論語「学んで思わざれば即ち罔(くら)し。思うて学ばざれば即ち殆(あやう)し。」
と言っているのは、正にこのことだ。ある程度、仕事ができるようになると、これでいいと思ってしまう。自分でもそういう時があった。特に若い頃、試験に受かると天下を取ったような気分になって、俺は何でもできる、と思った。ところが、何もできなかった。私は若いうちにそうまざまざと考えさせられて今があるから、良かった。これが年を取ってから分かったら大変だと思う。それから謙虚に学ぶようになった。まだまだ自分は至らないだろうと思い、今でも毎日1冊は本を読んでいる。その中での気付きを自分の考えに付け加えていくことを今でもやっている。それがなかったら、人間の成長は止まってしまう。
読書は知識を付けるためのものでもあるが、人格を高めるために行なうものだ。読書記録は魂の遍歴でもある。
H25.7.3 (7.1 事務所にて)
NHKの朝ドラ「あまちゃん」に出演している俳優の蟹江敬三さんは、昭和19年生まれで私と同じ年である。彼は、朝食は二人分自分が作っているという(奥さんはいるが)。今朝はその蟹江さんのお話をしたい。
男と女、夫と妻、これは全く違う人間である、そういうことがようやく分かってきたという。私もそういうことが分かってきたのは40歳を過ぎてからである。結婚しようとする人、したばかりの人、あるいは経験豊かな夫婦など事務所にも多くいるが、夫婦とはどういうものなのか、ということをお話ししたい。
男性の最大の間違いは、「俺が稼いで家庭を成り立たせているのだ」という驕りである。男性の8割が家庭を守ってやってきているのだから皆幸せだろうと思っている。それは大きな勘違いである。そもそも奥さんは、旦那さんの仕事には正直言って余り興味はない。奥さんにも自分の生き方がある。楽しいこともある、別の価値観もある。これを男性は尊重しなければいけない。
夫唱婦随と言われ山内一豊の妻が美化されているが、あれは珍しいから美化されている側面もある。私は逆説的にそう思っている。この事務所にも20数名の皆さんがいるが、一人ひとりみんな考えが違う。価値観も違う。誰一人として同じ考えの人はいない。それを認め合わないとやっていけない。奥さんも然りである。そういう度量の大きさが特に男性側にないと、家庭生活は上手くいかない。
蟹江さんが朝、ご飯を作る。役者である自分の仕事を理解してくれ、とは今は思わない。決して諦めているわけではない。それがお互いの幸せだからである。お互いに死ぬ時に、「ありがとう、良かったね」と言って死にたい、とおっしゃっていた。
H25.6.27 (6.24 事務所にて)
人間、生きていく上で「時務学」と「本務学」を学ぶ必要がある。
時務学とは、時を司る学問と言われる。これは、パソコンのスキルであったり、会計のスキルであったりする。今はいろいろな職業が細分化されているので、その専門知識を身に付けなければやっていけない。
もっと大事なことは本務学だ。これは別名「人間学」という。まさに論語を学んでいくことは本務学を身に付けることでもある。問題は、学んでそれを実践するかどうかだ。
孔子はいいことを言っている。
「生まれながらにしてこれを知る者は上なり」
なかなかこういう人はいない。次に、
「学びてこれを知る者は次なり」
我々は今、学びの環境が与えられ、チャンスが与えられている。これを素直に受け止めれば、こんなにありがたいことはない。ところが人間は残念なことに、
「困(くるし)みてこれを学ぶは又其の次なり」
自分自身どうだったか、と振り返ると実はこの「困みて」だった。しかし私はたまたま学生時代から論語や仏教をなぜかかじっていた。それによって、結果として困んだ時、それがパッと思い浮かんできた。自分自身は残念ながら三等の資質だ。ただその時に浮かぶものがある人は幸いではないか。人間、幸せな時もあれば困む時もある。これは波だから仕方がない。だが、困んだ時に指針となるべきものと持っているかないかで、次のステップが違ってくるのではないか。
論語にも書いてあるが、「後生畏るべし」という言葉がある。今の若い人は・・・ということが多いが、私はそんな風には思わない。特に、学生や院生等の若い人の相手をさせていただいていると、今の若い人の方が中高年よりもよっぽど資質が高いのではないか、という気がしている。そんな若者がどんどん社会に出てきたら、我々自身が「いらないよ」と言われてしまうくらいなものを持っているような気がする。世の中、就職が厳しいが、だからこそ自らを高める努力をしている。勉強もそうだが、当然ながら人間的な魅力を高めるためにどうすればいいか、ということもしっかり考えている。
私の話が最近の若い人に喜ばれ、感動されているというのは、そういうところにあるのではないか。私はいろいろなところで同じことを同じように話をしている。ところが、良かった、感動したと言ってくれる人とそうでない人がいる。その差は何なのか。これは自分自身の能力の差ではない。受け止め手がそういうものを持っているかどうかによって、感動もし、喜びもし、またそうでなくなる。だから、そういう話を聞いて、良かったと言ってくれる今の若者たちは「後生畏るべし」なのではないか。その若者を社会に向かい入れる我々は、若人以上に本務学を磨いていく必要があるとつくづく考えさせられた。
H25.6.13 (6.10 事務所にて)
福澤諭吉は『官尊民卑』の思想が大嫌いである。
特に勝海舟と榎本武揚の二人を批判している。二人とも徳川幕府の重鎮であった。それが明治維新になって、罪が許されると中央政府に入り大臣を歴任する。その他、爵位や勲章を受け、貴族としての地歩を固める。それはおかしいのではないか、というのが福沢諭吉の主張である。榎本武揚は民の代表として官軍と箱館戦争で戦った。戦争をした人間が翻って敵対した官側に仕え、大臣になったり爵位を受けたり、それは首尾一貫していない生き方である、と非難している。
時代がガラッと変わって、官の方針に仕えるというのも生き方としてあるのかもしれない。当時、官が尊くて、民が卑しいという「官尊民卑」の風潮があったことは確かなことである。そのために公爵、伯爵の位まで、恥も外分もなくいただいて、官と敵対していた人間が官尊の方に就く、ということを福沢はとても嫌った。民で通すのであれば官の叙勲や爵位は断るべきであり、今からでも遅くないから官の地位を返上して遁世すべきであるとまで言っている。
私は福澤諭吉のそういう生き方に大変共感を覚える。自分の主義主張はとことん貫くべきだと思う。福澤諭吉自身は官に就くことを一切嫌ったので、一生涯そのような要請があっても断り続けた。福澤諭吉は痩せ我慢の大事さを人生後期になってよく言っている。目先においしいものがぶら下がっても、すぐに飛びつくんじゃない、我慢しなさい、という痩せ我慢の重要性を説いている。これは、福沢諭吉の「独立自尊」につながる考え方である。現代にも通じる教えであろう。
H25.6.3
先日テレビを見ていたら、面白いことをやっていた。チンパンジーの短期記憶についてだ。
例えば、1・5・3・・・と10ケタくらいコンピューターの画面上で出てくる。そうすると、チンパンジーはちゃんと順番通り覚えているのだ。自分でも見ながらやってみたが、できなかった。人間はチンパンジーより劣るのか、と思っていたら、そうではないようだ。短期記憶は人間よりチンパンジーの方が優れているが、長期記憶は人間の方が優れているそうだ。
私の見解だが、人間だけが(良い悪いは別として)文明を発展させてきたというのは正に長期記憶のおかげなのではないか、と思っている。他の人の志や想い、ノウハウといったものを言葉や文章で受け取れる。だから次の世代にバトンタッチできる。それがチンパンジーや他の動物はできなくて、文明を発達させることはできなかったのではないかと思う。
論語で、『人にして遠き慮り無ければ、必らず近き憂いあり』というのは良く言われることだ。
自分には夢がある、理想がある、と言って夢と理想だけを語っている人がいる。その人達が成功するかというと、実は成功しないケースの方が多い。これは、夢と現実がかけ離れているからではないか。白昼夢を見ているような人生を送っているのではないか。夢を見る、志を持つということは、「遠きを慮る」ということなので、非常に重要なことだ。やはり遠きに想いを馳せ、歴史に想いを馳せるということが、人間(人類)が成長していく上で重要なことだ。遠いところの目標を現実と比較して、その現実の中で欠けているもの、伸ばすべきものは何なのか、ということをきちんと押さえていないことが問題だ。
未来を変えることはできる。しかしその未来を変えるのは、今を変える以外ない。今の考え方、思い、行動、といった小さいことを変えない限り、未来は変わらない。夢は壮大に持っていながら、なかなか現実化されない人の特徴は、現状と目標のギャップの把握、そのギャップを埋めるための行動計画(戦略)がないことだ。逆に、目先のことだけに右往左往している人も絶対に大成はしない。両方大事だ。それを明らかにしたのが、「人にして遠き慮り無ければ、必らず近き憂いあり」だ。
一生の人生の中で苦難の人生を歩んで一生を終わる人もいれば、歓喜の人生を歩む人もいる。そういう集大成で人間学はできてきた。このような生き方をすれば、このような行動をすれば、このような思いをすれば、上手くいく。逆に、このような思いをすると、こういう行動をすると、失敗する。そういうことの集大成なのだ。論語を学んでいただく際は、中身よりもそういったところを汲んでいただければと思う。
そして、もし論語を読破したら、老子を読んでもらいたい。老子が読み終わったら、次は韓非子を読んでもらいたい。特に韓非子は、会社を経営していく上での、いわばトップリーダーがどのような心構えでやっていくかということ書かれている。そこが論語だけでは足りないところだ。歴史的な背景で、なぜ韓非子が出てきたか、そのあたりまで読んでいただくと、人間学の幅が広がってくるのではないかと思っている。
H25.5.20
作家、浅田次郎氏の言葉を紹介したい。
私は本を読んでいる時に、心に響く(琴線に触れる)言葉にパッと出合うことがある。2,3日前に雑誌を読んでいたら、浅田次郎氏の対談が載っていた。その中に、
『私は、敢えて目先のことに集中する。するとやがて自分の将来が見えてくる』
という言葉が出てきた。これに私の心が即座に反応してしまった。人生の先のことを考えずに敢えて目先の仕事に集中し、それをずっと続けていくと、やがて自分の将来が見えてくるという。これは逆転の発想でもある。
人は自分の将来はこうありたいと、いつも夢を見ている。しかし、そればかりに囚われていると、意外に成果が上がらないものである。今の仕事、目先の仕事に集中していく。それを繰り返していくことで自分の将来がだんだん見えてくる。素晴らしい言葉だと思いませんか?
退職や結婚等、人生の転機を迎えた時、それぞれに将来の夢や目標があるだろう。将来こうありたいと夢見ることは否定しない。しかし、そればかりを考えていると地に足がつかなくなる。仕事もミスが多くなる。家庭もうまくいかなくなる。今、自分の置かれている立場を自覚して、自分が与えられている仕事に全力を尽くす。先のことを考えずに「目先のことに集中しなさい」ということだ。それが結果的に自分の将来を決めていくことになる。
九条武子の歌『見ずや君 明日は散りなむ花だにも 力のかぎりひと時を咲く』も同じだ。今この時に集中しなさい、全力で生きなさい。全く同じことではないだろうか。
クラーク博士は『少年よ、大志を抱け』と言った。大志を抱くことはいい。大きな希望を抱くことはいいことだが、そればかりに囚われると、地に足がつかなくなる。般若心経ではそういう状態を『転倒夢想』という。夢想に囚われていると、人生不幸になる。
H25.5.14 (5.13 事務所にて)
先週、電気通信大学大学院と法政大学経営学部で1コマ講義をしてきた。学生は両方とも80人位。アンケートはとても好評だった。
「人間はどう生きればいいか」という話をした。そういうことが若い時に分かっているのと分かっていないのとでは大違いだ。
今日(5/13)、朝礼の論語素読の中に「苗にして秀でざる者あり。」というものがあった。苗のままで穂が出ない、穂を出すためにはどうすればいいか、穂が出て実るためにはどうすればいいか、という話だ。
人間、「発奮する」とことが大事なのではないか。今のままでいいのだろうか、ということを常に考えながら人生を送っていくと、次の段階に進めることができるのではないかと思う。
そこで私は、せめて月1冊の読書はしているか、ということを問いたい。
私は本を読むことが好きだから、あえてこういう言い方をするのだが、人生を日々送っていく上で、自分自身が経験することはものすごく少ないだろう。しかし私はたぶん、皆さん方の経験の100倍くらいの経験をしていると思う。何故かというと、皆さんよりも100倍くらい多くの人に会っており、そういう人からももちろん学べるからだ。通常の人はそんなに人と会わない。であれば、それを補うものは読書しかない、と思う。
今回、事務所職員には「読書記録」を書いてもらい、1年後に提出してもらうことにしている。自分の成長の証を何かに記録することが大事なのだ。私も今までどういう本を読んだかは書いてはなかったが、今回自分で書いていて、未だに1日1冊以上は読んでいるのだ、と思った。それが今、一つの糧になっている。
30年経った時に大きな人生の差が出てくると思う。みんなそこで後悔するのだ。「後悔先に立たず」とよく言われるだろう。ぜひ騙されたと思ってやってみてもらいたい。
大学院生と学生と先週講義させていただいたが、みんな真剣だ。今の若い人はそういう話を好むのだな、とつくづく感じた。こういう若者がいるということは、日本も捨てたものじゃないな、と思うと同時に、こういう若者の苗を実らせるお手伝いをさせてもらうことも我々の役割なのだ、と感じて、今まで以上にそういうところにも関わっていこうと思っている。
H25.5.8 (5.7 事務所にて)
坂本先生の『日本でいちばん大切にしたい会社』第4巻が早ければ今年の11月位に出版される予定だ。今回は5社選定され、そのうちの1社の取材に同行させてもらった。
坂本先生とはいろいろなところでご一緒させてもらっている。会社を訪問する際、特に取材の時にどのようにやっているのか、とても興味があった。実質5時間お付き合いをさせてもらったが、本当に勉強になった。
坂本先生は、対象となる会社を徹底的に研究されている。こんなことまでご存知なのか、というところまで研究をし、それを基にインタビューをする。あの姿勢は我々も見習わなければならない。
今起きている現象には歴史がある。いろいろご苦労されたり、工夫をされたりして、今それが活きている。その現象面だけ捉えると、「こういう仕組みで回っているのだ」というだけだが、その背景にも必ず歴史がある。その歴史から掘り起こしていき、なぜ、そういうことをされるようになったのか、というような質問を的確に入れている。
今、後ろ姿で人を導いていくという人が少ない。その数少ない一人が坂本先生だと思っている。坂本先生といろいろなところでお会いすると、「こういう生き方をしたいな」ということを常に学ばせてもらっている。
官公庁の委員会は、お役人がシナリオを作っていて、それに沿って進めるというのが一般的だ。ところが坂本先生が委員長になった時は違った。私は何でも言ってしまう方なのだが、そういう口うるさい人間も止めない。それをきちんと意見として持っていってくれる。これはとてもありがたい。自分でもそういうところは見習わなければいけないと気付かされる。
これから当法人でも企業見学会を行うが、会計事務所業界ではほとんどやっていないのではないか。自分の業界の中でいいところを見ればそれで良しとする風潮が我々の業界にはある。しかし、ブレイクスルーは同業者の中からは得られない、と思う。異業種の中から本当のブレイクスルーの種は出てくる。職員諸君には、今回訪問する企業からブレイクスルーの種を学んでいただき、この事務所に植え付けてもらいたい。
H25.4.30
昨日、ある方と話をした。55歳で役職定年を迎え、給料もグンと下がってしまったそうだ。また、実際に周りで同級生が第二の人生を歩み始めてみたり、中にはリストラにあったりしている。そんな中で日々仕事をさせてもらえることは、とてもありがたい。
今、自分で時間管理をやっている。どのくらい働いているのかと思ったら、毎月約350時間働いていた。一般的には180時間と言われているので、ほぼ倍くらいだ。
仕事だけではなく他のことも含めて、命は燃やすためにあるのだ、と思う。燃やしながら、周りを明るくしていく。そういう役割が人間にはあるのではないか。そうであれば、自分の命を燃やすことを惜しんではいけないし、ケチってはいけない。最大限生きてみようと思った。
生かされて生きているというのは、本当にありがたいことだし、周りのことを考えれば本当に恵まれている。この恵まれていることを周りに還元していかないと貪る人生になるのではないか。自分を戒めながら、そんな気持ちで今頑張っている。若いときはあまり気付かないかもしれないが、一番大事なものは実は「時間」なのだ。時間を有効に集中して使う。そこに命を燃やし、吹き込んでいく。こういうことが人生にとって大事なのかな、とここ数日間で感じた。
H25.4.8
この桜の時期に来ると、九条武子の歌を思い出す。
「見ずや君 明日は散りなむ花だにも 力のかぎりひと時を咲く」
九条武子は、大正から昭和初期にかけて活躍した薄幸な歌人だ。
これは、TKC創始者の飯塚毅氏から教わった歌だ。私がTKCに入って間もない頃で、すごいショックを受けた。爾来、30余年間、ずっと私の生き方の指針となっている。
もう桜は散ってしまったが、「あの満開の桜を見てごらん、明日散ってしまう花でも今を精一杯咲いているだろう」という歌だ。非常に単純だが明快だ。明日どうなるかなんて誰にも分からない。明日散ってしまう命でも、今この時を力の限り生きる。桜の命はせいぜい一週間くらいだ。一週間のために365日頑張ってきたのだ。
人生はどうなるか本当に分からない。私は大学を出て豚を飼うなんて思っていなかった。その養豚を辞めて税理士になるなんてちっとも思っていなかった。でも今こうしてあるというのは、振り返ればその時その時を全力で生きてきたに過ぎない。大学に入ったときは、卒業して豚飼いになるとは思ってもいなかった。養豚業では、一所懸命真っ黒になって朝から晩まで働いた。その時は税理士になるなんて夢にも思わなかった。税理士になってからも一所懸命税理士と言う仕事をやってきた。それで今の自分があると思っている。今が嫌だと思ったりしたら、先の人生なんて絶対にない。与えられたことは運命だ。この報徳事務所と関わりを持っているのも皆さんの運命である。だから今日一日、この一か月、全力で生きるのだ。そうしたら未来が開けてくる。「桜の花を見なさい」というのはそういうことである。
よく、人生の設計をすることが好きな人がいる。こういう人生を送りたい、と考えることは無駄とは言わないが、現実は絶対にそうならない。これだけ人間がいると、自分の思うとおりにはいかない。では、どう生きるのか。今日一日を全力で生きる。その積み重ねが80年の人生だ。こういうと刹那的で夢がないと思うかもしれないが、そこから人生は開けてくるのだ。それを皆さん信じていただきたい。一日一日を全力で生きて下さい。それが30日経つと一か月、365日経つと一年、それをずっと繰り返していくと間違いなく道が開けてくる。それを諦めて途中でやめる人が非常に多い。なんか自分と合わない、違うところにもっといいところがあるんじゃないか、と思う。これは大間違いだ。与えられた今の仕事は自分の仕事、運命だと思って全力でやる。それが自分の道を開く唯一の方法だと私は思っている。
H25.4.8 (4.1 事務所にて)
仏教の話をしたい。
お釈迦様が亡くなる時に、弟子達(特に阿難陀)がお釈迦様に聞いた。
「これから我々は何に頼ればいいですか?」
その時にこう言った。
「いいか、今まで自分(お釈迦様)が説いてきた教え、つまり法というものがあるだろう。また、自分の中には限りない仏性が宿っている。だからそれを信じなさい。」
それを中国では灯明になぞらえて、「自灯明、法灯明」という言葉になった。インドでは、川の中にある小さい島を拠り所とせよ、としている。それが島だと中国では分かりづらいので、灯明になったと言われている。
皆様方の中には限りないみなぎる力を持っている。それを信じきることによって素晴らしい人生を送ることもできる、ということを仏教は教えてくれている。
今、少しずつだが、原始仏典に挑戦している。いろいろな宗派があるが、お釈迦様は何と言ったのか。分厚い本ではあるが、少しずつ紐解きながら、2500年前の本当の仏教の教えは何だろう、ということを自分なりに学んでいこうと思っている。
H25.3.11
今朝の朝礼(方針唱和)は『大學(抜粋)』だったが、これは四書五経の中心となるものだ。「大學」とは大人の学問だ。為政者の學、リーダーの學といってもいい。
今回、抜粋としたのには理由がある。「大學」はもう少し長く、その後には「古の書に曰く」とか「古人曰く」などと、「昔の本ではこう言っている、昔の人はこう言った」ということを繰り返し繰り返し述べている。
大學の冒頭に「明徳を明らかにする」という三綱領の一つがある。これが人生にとって一番大事なのだ。そのためにこうするのだ、ということを八条目で言っている。昔の人も昔の本もこう言っていた。だからこれは正しいのだ、ということを言っている。
一度二度読んでも分からないものだ。私も分かりかけてきたのは、実は50代になってからだ。20代から読んでいるが、50代になってやっと分かりかけてきた。ぜひご覧になっていただきたい。
今日は東日本大震災からちょうど2年にあたる。朝のニュースでも随分震災のことを言っていた。
ある人がこんなことを言っていた。
「コンクリートで固めても災害を減らすことはできない」
国土強靭化計画といって古くなったところをどんどん公共投資で強化しようとしているが、そうではない。実はソフト部分の教育が大事なのだ。石巻市は亡くなった人はたくさんいたが、小学生・中学生はほとんど亡くなっていない。何故か。小中学生の方が足が速かったから・・・ そうではない。小中学生は「津波がくる、と言ったらまずは高台に逃げろ、何をおいても逃げろ」と教えられていた。ただそれだけだ。これが真実なのだ。しかしそれを受け止める方が「そんなこと言ったって、そんなの嘘っぱちだ」と思っていたらどうだろうか。
今、世の中で同じようなことが随分起きている。例えば経営でも、経営に王道はないという人もいればあるという人もいるが、少なくとも自分勝手にやっているよりも、こうすれば上手くいくであろう、というものはある。我々はそれを提示している。それを提示しながらも、信じない人がいる。目を横に逸らして、それは嘘っぱちだと。そういう人がどんどん深みにはまっているのが現状ではないか。
「大學」は正に人生の智恵、真理を説いているものだ。ただ難しいとか嘘っぱちだとか、数千年前の人が言ったことだから今は役に立たない、などと思わないでもらいたい。そう思うことが、自分の人生を間違いなく誤った方向へと導いてしまうことになりかねない。
私は、いろいろなところで正しいことを言おうと思っている。なので、常に反省をしている。本当にこれがいいのだろうか、ということを反省し、尚且つそのために自分の知識や知恵を、昨日よりも今日、今日よりも明日高めようと、皆さんが見ていないところで努力している。これがなくなったら、正しいことを語る資格はなくなると思っているからだ。自分を高める努力をしていかなければ、人様の前でそんなことは言えない。人生を引退するまでの自分に課された課題だ。そういうことを重ねながらやっていくことが自分を高め、また周りにいい影響を及ぼすことに繋がる。素直な心で、昔からいいと言われているものはきちんと読み込んでいく癖付けをしていただきたい。
H25.3.8 (3.4 事務所にて)
前回、福澤諭吉の議論の話をした。復習すると「議論の本位を定めざれば、その利害得失を談ずべからず」、議論の目的や本質をきちんと決めなければ、あれがいい、これがいい、という本質から外れた議論に終始してしまうので、目的・本質をきちんと定め、理解した上で議論をしなさい、という教えであった。
今日はその続きについて話をしよう。福澤諭吉は非常に卑近な例を出すのが得意で自説を分かりやすく解説する。
例えば、お酒の好きな人とお酒の飲めない人が議論をすると枝葉末節な言い争いばかりで結論が出ない。挙句の果て、酒好きな人は、下戸に「お正月にはお屠蘇ではなく水盃をするのか」と言いがかりをつけて、全く無駄な議論になってしまう。
別の例は、田舎のお百姓と都会の市民の議論だ。百姓は正直だが愚鈍である。都会の市民は怜悧(知恵)があるが軽薄である。そういう両面がある二人が議論をしても、お前は軽薄だ、お前は愚鈍だ、と罵り合って、一向に結論が出ない。
また、革新派と保守派の議論。改革していこうとする革新派と昔の古風なやり方がいいという保守派が議論をしても少しもまとまらない。革新と保守の平行線をたどるばかりである。
そのような時に福澤諭吉はどうするか。相手のいいところを見るようにと提案している。
お百姓さんであれば「正直」なところ、都会の市民であれば「怜悧」なところ。いいところを見れば共通点が出てくるのだ、ということを言っている。相手の優れたところに目を向けることは素晴らしいのだが、頭では分かっていても、なかなかそういう風になれないのが世の常だ。そうなるためには何が必要か。
福沢は、そのために重要なのは「人との交際」であると説く。人と交わる、一緒に酒を飲んだり、歌舞音曲を共にしたり、ゴルフをしたり(当時はゴルフはないだろうが)、そうやって人と交わると、わだかまりが解けて相手のいいところが見えてくるという。
付き合い(交際)の好き嫌いは人によっていろいろあるだろうが、議論がかみ合うようにするためには嫌いな人でも人と交わらないといけない。
※詳しくは『文明論之概略』を読んでいただきたい。
民主社会は議論をしながら物事が進んでいく。共通点、共通項を探らないと結論は出ない。そのためには、交際が非常に大事だと改めて感じた。
皆さんもいろいろな交際のチャンスがあると思う。セミナーや研修後の懇親会なども、最後まで残って人と交わることに是非積極的になってもらいたい。
H25.2.25
これからどういう世の中がくるか。
皆さん本日(2/25)の日経新聞を読んだと思うが、日銀の総裁・副総裁人事を考えた場合、間違いなく金融緩和の方向にいく。それは、間違いなくデフレからインフレへシフトしていくことになるだろう。問題は、我々の思考が習慣化され、デフレの頭になっていると、急激なインフレになった時に対応しきれなくなる可能性があるということだ。
インフレで物価が上がるからいいだろう、という話があるが、実は今、逆の現象が起きている。数日前の新聞をご覧になった方はよくご存知だと思うが、今、高額商品が売れているという。逆にスーパーやコンビニの売上が前年対比で下がっている。これは何を意味するか。正に世の中が完全なる二極化が始まったのだ。つまり、「持てるもの」と「持たざるもの」とに二極化が始まってきたといえる。
ちょうど今が分岐点だ。たぶん、今こんなことを言うと誰も分かってくれないと思う。しかし3年位すると、あの時言っていたことはこういうことか、ということが良く分かると思う。我々は税務会計だけでなく、そういうこともお伝えしていくことも必要だ。
では、次はどういうことになるか。
国債がおかしくなるだろう。それにはいくつか理由がある。今までは特に金融機関は国債をどんどん買い込んでいた。ところが今、株がこれだけ上がってきても売る株があまりないそうだ。なぜかというと、リーマンショック以降にどんどん売ってしまっているからだ。そうなると、株の一定額は持たざるを得ないということになろう。そうなれば、資金が急激に増えない限りは国債を売って株に変える、ということにならざるを得ない。国債を今まで消化していたのは主として金融機関だが、その国債を消化する余力がなくなる。そうなると、当然ながら利回りはグンと上がる。利回りが上がるということは、国債価格が急激に下落していく。それが何を意味するかはお分かりだろう。間違いなく日本の財政はおかしくなってくる。それがだいたい5年後位だろう。
私はいくつかのシナリオを頭の中で立てていて、こういう条件が整ったならばこれがだいたい何年後位にくるだろうと考える。当たる時もあれば当たらない時もある。当たらなければその条件を再度見直しして、再度シナリオを作っていく。それの繰り返しで昔から未来予測をやっていた。そんなことも頭に入れておくといいのではないか。これが現情勢だ。
話は変わるが、この頃経営改善や企業再生のお手伝いをさせていただくと、やはりこういう事態を招いたのは、環境でもなく、経営者そのものの心の傾向性にあるのだ、とつくづく感じる。そういう方は、お金が足りなくなるとお金が足りないことだけに囚われてしまう。しかしそれはあくまでも結果なのだ。お金が足りなくなる原因が必ずある。その原因を追究し、それを是正もしくは除去しなければ、現状は何も変わらない。物事を改善するための根本的な考え方は、そういうところにある。結果だけに囚われているのがダメになった経営者の特質なのではないか。原因をきちんと追究して改善していかなければ物事は変わらない、ということをお伝えすることも大事だ。それを「PDCAサイクル」というわけだが、お釈迦様は2500年も前にそのことを説いている。
『四諦八正道』
ということを言っている。こういうことをきちんと我々が伝えていく必要がある。
H25.2.18
今日は、会議や議論について話をしたい。
我々は民主主義国家だから、議論・会議をして物事を決めていくのが原則である。だから議論の仕方はとても重要なことである。
福澤諭吉の「文明論之概略」に
『議論の本位を定めざれば其利害得失を談ず可らず』
という言葉がある。議論の本位とは、議論の本質。どういう議論をするのか、どういう目的でこの議論をするのか、をキチッと事前に定めなければ、その利害損得(そうやったら損する、こうやったら儲かる、それは良くてこれはダメだ等)を会議の中で談義してはならない、と言っている。
私も税理士会でいろいろな役職をやってきて、会議を仕切る立場にいるが、この福沢諭吉の言葉は私にとって議長の大事な心得となっている。この議題はどういう目的で、何を決めるのかを議長が理解していないと枝葉末節なところに話題がいってしまい、収拾がつかなくなる。私も過去にそういうことを経験して、随分苦しんだことがある。
議長(司会者)としては、自分の独断になってしまってはいけないが、どういう風なまとめ方で治めようという落としどころを事前に考えておく必要がある。皆さん方のご意見を聞いているうちに、秩序なく利害得失を談ずるような雰囲気になってきたら、それを修正していく。これは損だ、これはまずい、など反対意見は必ず出てくる。本質を外れた論議ばかりが盛んになるとまとまりがつかなくなる。この議論、議題は、どういう目的で何を決めてどのような結論を得のか、それが議論の本位(本質)だ。それがないとウィーン会議のように『議場は踊る、されど進まず』ということになる。議論は踊るように活発だが、ちっとも結論が出ない、というようなことになってしまう。
事務所のTSM(会議)も司会者が進行役になるが、議題が何なのか、何の目的でこの議題が入っているのかを理解して会議に臨んでほしい。目的に適った結論をしかも時間内に得ないと会議の意味がない。会議・議論は、本位・本質を理解して臨むことが一番大事だ。司会者が不勉強で何も用意していなかったら会議の成果は上がらない。いろいろな議論が出ることを前もって予測し、その対応を事前に考えて臨めば議長は合格である。
H25.1.22 (1.21 事務所にて)
今日は健康についてお話ししよう。
何をするにも健康が一番であることはだれでも理解している。しかし、理解と実践は別物である。現在、死亡リスクの高い順にその原因を並べると、
これが死亡リスクの高いベスト4である。この中で比較的簡単に自分でコントロールできるのが、1.と3.であろう。そして重要なことは、1.、3.の改善は2.、4.の改善につながっていることである
今日は、3位の運動不足についてお話ししたい。
この10年間で日本国民の運動量は減っているそうだ。特に20代から50代が減っている。男性で一日の歩数は、8000歩 → 7000歩、女性は7000歩 → 6000歩、と1000歩減っている。歩数が1000歩減ると1年で1kg体重が増えるという。10年で10kg増加になり、食事とともにメタボの大きな要因になっているとのことである。
この解消策は、運動習慣をつけることだという。運動習慣の定義は、厚労省によれば『30分以上、目的を持って運動し、それを週2回以上、さらに1年以上継続していること』だそうである。皆さんはどうだろう?運動習慣のある人は何人いるだろうか。ぜひ運動をしていただきたい。体調が悪くなると自分が苦しむだけでなく、家庭生活はもちろん、仕事にも支障も出てくる。周りの多くの方々にご苦労を掛けることになる。
私の運動習慣は、ゴルフの練習である。仕事帰りに週2~3回練習場に通っている。
平均1時間半ぐらい、球数にして300~400発打ってくる。夏は汗びっしょりだが、今の時期はちょうどよく体が温まる。そのおかげで私は健康でいられるのかなと思っている。
仕事始めで、職員の今年の目標を聞いたが、数人の女性から今年は「マラソンに挑戦したい」と聞いて、驚いた。運動なら何でも好きなことをやったらいい。健康の維持は幸せの原点であるので頑張って挑戦していただきたい。
H25.1.9 (12.17 事務所にて)
選挙の話をしたい。
12月16日、当地では2つの選挙があった。
今回の総選挙は投票率が非常に悪かったようである。59.3%、6割いかなかったことに驚きを禁じ得ない。戦後最低の投票率だそうである。大震災もあったし、原発のこともあり、そのほか景気対策、年金問題など課題は山積であり、7割くらいはいくと思っていた。しかしこの6割もいかない現状をどう解釈すればいいのか。私には分からない。若者の政治離れはこれほどまでにひどいのか。
『国家は国民の能力以上にもならないし、国民の能力以下にもならない』と言われる。それからみると非常に残念な結果である。日本という国が低能国家だとは思いたくないが、これでは国家の将来が見えてくる。国民がその程度の関心しかない国はそれ以上の国にはならない。師走の選挙とはいえ、大晦日でもないのだから、選挙に行く時間がないというのは言い訳に過ぎない。
そして、結果として民主党が大敗した。3年3ヶ月前の選挙では自民党が大敗した。その時にも言ったと思うが、日本人はなぜ中庸に留まらないのか。日本国民は振幅が非常に大きい民族である。いい時はいい、悪いとなると極端にダメ、真ん中に留まることをしない。これは国家にとって非常に不幸なことだ。これで自民党政権となり、また元の政府に戻るだろう。自公連立だと3分の2以上、何でもできる。小選挙区制にもその原因があるかもしれない。
いいことは一つ。政策の実現性が高まり早まることである。しかしこれは善悪両面があるので、両手を挙げて喜ぶわけにもいかない。
そして古河の市長選もあった。接戦かと思ったが思ったよりも差がついた。情報時代だが、他候補の中傷に明け暮れた選挙戦はうんざりである。お互いに正しい政策情報を真摯に提供して市民の判断を仰ぐ選挙は、いつ来るのだろうか。古河市がいい方向にいくのだろうか。大変心配だ。古河市の市政も、市民の能力以上に良くもならないし悪くもならない。きちんと全員が自分の考えで投票することが選挙には必要だ。